長らく更新していなかったC-drivenのブログですが、「締切り1日前厳守、お借りしているブランドの価値を慮ったコンテンツ作り」を心がけ、仕事はしっかりやっております。これからも、そういう意識でもって、邁進する所存でございます。

ということで、久々の更新なので、ここでは平成27年度のお仕事についてご報告しようかと思います。

ご紹介するのは、弊社でお手伝いする仕事の中でも相当変わり種なものです。なので、このまま読み進めるかどうか、ご判断いただくためにも以下ざっくりと。

  • C-drivenは「コンテンツマーケティングに資するコンテンツを制作する会社」です
  • が、もっと大きなテーマである「高齢社会に向けた社会貢献に繋がる仕事」も絶賛お手伝いしております
  • 平成27年度の成果として最も大きいのは、厚生労働省の事業である「平成 27 年度 老人保健事業推進費等補助金 老人保健健康増進等事業 認知症の医療介護連携、情報共有ツールの開発に関する調査研究事業」のお手伝いでした
    (カンタンに言うと…認知症の方を支える環境づくりのために医療や介護といった立場を越えた連携をするために必要な情報共有をするためのツールを作るにあたり、どんなものが必要か? を全国の先進事例を取材してそれを元に考える、というものです)
  • ここで感じた「コンテンツ(主に記事)を作るうえで大切なこと」は、「日本語だから、言葉の意味は同じ」わけではないということ
  • 誤解を生まないためにも、やっぱりペルソナ・ジャーニー・コンテンツマップを作ることは大切
  • そういう視点で見ると、「悪文」ってないんじゃないの、ということ

こんな内容で書き進めて参りたいと思います。では、ここからが本題です。

C-drivenの平成27年度の活動について(前フリです)

前述の厚労省の事業について、C-drivenは、先進事例の取材に同行してその内容をレポートとしてまとめる、というお手伝いをいたしました。

その中で、「ああ、こんなに志の高い人がいるのだなぁ」とか、「なんと危機管理能力の高いことか」「先見の明っていうけど、実際に行動に移すにあたっては…大変だっただろうなぁ」と想像しつつ、そのことを直接うかがう機会が得られたことは感謝のひと言に尽きます。それと同時に、「超高齢社会」というものをある意味で身近に感じ、これからの社会のあり方などについて、考えを巡らす機会となりました。この辺のお話しは別途書けるといいなぁと考えています。

報告書はwebで公開されているので、もしご興味のある方がいらっしゃればぜひご一読いただきたいところです。
平成 27 年度 老人保健事業推進費等補助金 老人保健健康増進等事業 認知症の医療介護連携、情報共有ツールの開発に関する 調査研究事業
専門知識がなくても大丈夫な内容ですが、取っ掛かりやすいのは「Ⅲ 情報連携先進地域の訪問調査」だと思います。

と、このプロジェクトに参加したことは、いろんな意味で相当勉強になったのですが、モノを書き伝える仕事をするうえで大事なこと、への気付きもそのひとつとして挙げられます。
では、それって具体的になんなの? というところを以下に記していきたいと思います。

「日本語だから言葉の意味は同じ」と思うことの危うさ

ちょっと煽り気味ですね。が、ひと言で言うとこんな感じなのです。
本当にこれは肝に銘じるべきことだと痛感しました。

実際のところ、文章を書く、というのはかなり参入障壁の低いものだと思います。
例えば、ビジネスパーソンなら、日々膨大な数のメールや企画書などを書いているわけで、それは(めんどくさいな、とか、取引先相手だから敬語表現を間違ったらマズいし煩わしいな、と思うかもしれませんが)日常のわりと当たり前な行為になっていると思います。

で、そうした場合、だいたい相手との“共通言語”が成立している状態なので、特に単語が意味するところや外来語表現について、意味の取り違いをすることはないでしょう。

と書くと、「どちらも日本語なんだから、共通言語が成立しているのは当たり前でしょ」という風に考えられる方もいらっしゃるかもしれません。でも、実はそうでもない場面が多々あると思います。。
特に、自分が普段生身で接していない相手とやり取りをする場合、それは顕著に感じられるかと。

ひとつ目の例です。
本事業の取材や研究会では、頻出用語として「情報共有ツール」という単語が出てきました。
おそらく、この記事を読まれている人のかなりの確率の方がITリテラシーが高く、
「情報」「共有」「ツール」と見ると、Dropboxのようなストレージサービスやbacklogのようなプロジェクト管理システムなどなどを想像されるかと思います。

が、ここで言う「情報共有ツール」は、冊子です。
紙です。
A5とかB5とかそういうサイズで、バインダー形式にするか、綴じものにするかはお好みでお選びいただける感じのものです。

で、これだけなら、少なくとも会の全員が“共通言語”として成立しているので、私がモヤッとしながらレポートを作ればいいのですが、そうはいかない。

一部参加者の中には、議論の中で「(ICTを活用した)情報共有ツール」のことを指して「情報共有ツール」と言う方も出てきてしまうわけです…。さらに厄介なことに、当人の頭の中では切り替えられているので、特に違和感なくしゃべっていらっしゃる。けど、一瞬周囲が戸惑う、と。

文字面にすると分かりやすいのですが、ね。これが会議中に枕詞なしで出てくると、そりゃ結構な混乱を来しますよ。

想像してみてください。
ある人は紙のツールをイメージしながら会話を進め、もう一人はある時はICTを、またある時は紙の方を思い描きながら発話する。
さらに、そのどちらものそんなに深い理解をもっていないオブザーバーが質問を投げかけてきたりしたら…。結構な輻輳っぷりです。

この場面において「おいおい、ちょっとみんな落ち着こうぜ」と、言えたら良いでしょうけど、せっかく温まりだした現場でそんな野暮なことをしてはイカンのです。

こういう場面は意外と社内の会議なんかに見られるのではないかと思います。
「議事録を取れと言われたが…。どうするべきか…」。みなさんにも一度は経験があるのではないでしょうか?

バックグラウンドや立場から、言葉は選ばれる

イチイチ「それって、どっちの意味ですか?」とか、「その言葉って、こういうことでっか?」と聞けないような場面において、レポート担当者や取材を行う人間としてできることは、「発話者のバックグラウンドを理解し、さらにその発言の真意がどこにあるのか、を想像する」ことに尽きると思います。

そして、正確に「その言葉が指すものはなにか」を理解し、場合によっては補語を加えることで、ちゃんと「他の人が読んでも発話者の真意が伝わる文章」を記すことが求められるわけです。

ただし、ここで注意しなければならないのは「真意の取り違い」です。

過去の発言のクセなどから発話者が言葉を選定する傾向みたいなものを推測することができない場合、または単純に思い込みなどによって、ライターはまれに「創作」をしてしまう場合があります。それは一番やっちゃいけないこと。
あくまで、真意を汲むのであって、それと「創作」や「聞いた感じこう思った」といった押し付けじみたこととは異なります。
(なんですが、恥ずかしながら私自身も経験があります。「これは僕の言葉と違うよ」と言われたときのゾッとした感じ…もう10年くらい前の話ですが、今でも忘れません。防ぐためにどうすればいいのか、というと、もう訓練しかないのかなぁと思うところです。大変難しいことです)

ちょっと話が逸れましたね。元に戻ります。

事業の研究会では、医療と介護の間での情報共有のおいての懸念事項として、ちょっとした専門用語すらも立場によって意味が変わる、という話が出ました。「服薬」という言葉について、薬剤師の方が指し示すそれと、医師、看護師、介護スタッフ、患者や家族とでは、言葉は同じでも内容や行為そのものがまったく異なる、というのです。

それをすっ飛ばして話を続けると、思わぬ誤解や場合によってはインシデントに繋がる、という危険性が論じられました。
医療や介護の現場では、「人の命を直接扱う」わけで、前述のことを前提に話をしなければならん、というわけです。

これが、「『日本語だから言葉の意味は同じ』と思うことの危うさ」、つまり「立場やバックグラウンドによって、同じ日本語でも意味が変わる」ということであり、逆に言うと「バックグラウンドや立場から、言葉は選ばれる」ということです。
このことは、いつでも胸に折り畳んでおかないといけないのだ、と強く思う次第です。

コンテンツマーケティングをするためのコンテンツを作るために、どう“気付き”を応用するか?

翻って、私が普段書く記事では、そんなに直接的に生き死にを左右することは考えづらいものです。
が、「コンテンツマーケティングに資するコンテンツを作る会社」としては、読み手にとって有益な情報として受け取ってもらうために書いた文章なり作ったコンテンツが、意図しない誤解を生んでしまうようなことはしてはならないと常々思っています。

では、どのようにその“誤解”を生まないようにするのか? これも大変難しいことだと思います。
正直なところ、「だれにとってもカンペキな文章」というのはあり得ないとも考えているので、解決策なんてないのだと思っています。

が、もしその“誤解”を少しでも失くすためにできることがあるとしたら、それは「読み手」を深く想像することであり、その「読み手」がどういった状態にあり、どういう状態になる上で必要な文章を自分が書こうとしているのか整理することに他ならないと考えます。

つまり、

  1. おぼろげな“読み手”という概念をペルソナとしてより具体的に設定
  2. 彼らが例えばモノを買ったり何かを申し込んだりするまでに感じるギモンや課題を想像してカスタマージャーニーとして可視化
  3. それを解決し得る情報をコンテンツにした場合の設計図(コンテンツマップ)に落とし込む

という一連のことを丹念に行う、というわけです。

ここまでやって、やっと「コンテンツマーケティングに資する(かもしれない)文章」を生み出す準備ができた、といえるでしょう。

原稿が書くまでの準備、長いな!! と思ってしまいますが……結構な手間ひまをかけなければ原稿はできない、ということです。

ただし、これらの精度が高まれば高まるほど、例えばペルソナにとって馴染む言葉を選んだり、分かりやすい比喩表現を探しやすくなる。

だからこそ、こうした準備は必要欠くべからざることだと私は考えています。

何をもって「悪文」と判断するか?

そうした考えに基づくと、文章とはなにか、コンテンツとはなんなのか、考え直さざるを得なくなってくるかもしれません。

突然ですが、みなさんにとって「良文」とはどんなものでしょうか?
作家の●●さんの文章、という方もいれば、知り合いの●●さんの文章はいつも秀逸だと思う、と考える方もいらっしゃるかもしれません。

ちなみに、私にとっての良文は例えば「池波正太郎の食べ物に関する描写」です。ああいう本能に訴える文章が書けるようになりたくて、日々頑張っているといっても言い過ぎではないくらいです。

では、「悪文」とはどんなものでしょうか?
意味が通じない文章、と言われるかもしれません。では、意味が通じない文章とは?

例えば「てにをは」が多少違っていても、悪文と評するほどのものはないと思います。意味が汲み取れるなら、ね。
もしくは、擬音やらが多すぎる文章、と言われる方もいらっしゃるかもしれません。まあ、生まれた場所にもよるかもしれませんが、これも悪文と断ずるほどではないように思います。
やたら装飾が多かったり、文字の打ち方がアーティスティックなものとか、いわゆるギャル文を想像する方もいらっしゃるかもしれません。でも、これだって、プロトコルが合えば「悪文」と言えるかどうか…。

もし、読み手にとって、それが最も伝わりやすい言葉だったとしたら、それはむしろ良文になるのかもしれません。

と、このように、「何をもって『悪文』と判断するのか?」は、ひとつの視座から判断することはできません。

特に、先の述べたような準備をした後に、コンテンツマーケティングのためのコンテンツを作成するのであれば、なおさら。そうした判断はやってはいけないことなのだと考えます。

いやー、コンテンツ作りって、奥が深いですね。。
では、この記事はこの辺で。
自社のブログや広報用プレスリリースを作るうえで、何かしらの参考になれば幸いです。

それにしても……久しくブログを更新しておらず、
「これでは『まめに更新しないとダメですよ』なんて言えないな」という反省の気持ちでいっぱいです。せめて週に1回はちゃんと更新するようにしようという決意を込めて。

「認知症の医療介護連携、情報共有ツールの開発に関する調査研究事業」をお手伝いして「日本語だから言葉の意味は同じ」と思うことの危うさを知る
Share on Facebook12Tweet about this on TwitterShare on Google+0Share on LinkedIn0

Related Posts